前川弘明句集『蜂の歌』〈芳潤な羽音 茂里美絵〉

『海原』No.42(2022/10/1発行)誌面より

前川弘明句集『蜂の歌』

芳潤な羽音 茂里美絵

  満開の桜の家のすこし浮く

 ふと目覚め窓をあける。早朝の空と溶け合う様に咲いている桜。ふいに花に守られている、という意識と共に家長としての自覚も呼び覚まされる。すこし浮く、は作者の現在の安定した生活も窺える、さりげない措辞の見事さと言えよう。
 本句集は『緑林』に次ぐ第六句集であり、平成二十九年から令和三年までの、四八六句を収めたもの。
 俳句という形式は小さい。その容れ物から溢れたがる言葉を、如何に句の器に収めるかが問題となってくる。そして、言葉にもいろいろな性格があり、一瞬に飛び立つものと、熟成を重ね、納得してから歩き出すタイプがある。言葉とは、「生きもの」であり、それを操る人間、つまり俳句作家は苦労することになる。

  沖へ放る花束すでに今日は過去
  愁思とは水底の銀のようなもの
  砂浜にヒト族の跡星月夜
  月の波涛まぼろしの蝶舞いやまず

 極端な言い方をすれば、人間(特に俳句に携わる私たち)は言葉から出来ていると思う。正に、始めに言葉ありき、なのである。事物に対面しあるいは視たときの、一瞬の無時間を経て、その想いが言葉になる。心の内側の言葉とも。
 長崎は、前川弘明の住む街である。西海に面し、いくぶん異国風でモダンな歴史をも持つ美しい街並。むろんその歴史には、大いなる負の遺産である、第二次世界大戦の疵跡もあるが、いまは静かな自然に守られていると思いたい。
 先に掲げた四句には、そうした風土を背景に創られた、抒情性に富んだ作品群である。沖へ放る花束、は心理的な決着をつけるため。そして、今日は過去、ときっぱりと言い切る。水底の銀のようなもの、には愁思の気分を鮮やかに表出している。砂浜にヒト族の跡。ひとときの華やいだ賑わいのあとの、茫々と広がる澄んだ星々の世界を投げかける。
 まぼろしの蝶の、かすかな翅音が、月に浮かび上がる白々とした波音を消し去り、天空に舞い上がる蝶の儚い幻影が迫ってくる様相。抽象と具象という俳句における言葉の両翼を確かなものとして具現化している。

  青き踏む被爆児童として生きて
  あの夏のカモメは赤かったと思う
  戦記読む蜂の巣一つ壊しきて
  爆心の空へ令和の指ひらく
  雪燦燦つぎつぎ天使が降りてくる

 長崎の地を拠り所とする氏は、あの悲惨な原爆投下の記憶を語らねばならない筈。直接被爆を受けたわけではないが、少年の心に焼き付いて離れない記憶。令和の指ひらく、に見る現在に至っても、その記憶はまざまざと残る。ただ最後の一句を目にしたとき、かすかな安心が心をよぎる。
 雪燦燦、そして復興を果たした街へ天使が降りてくる。それは亡くなった犠牲者たちの魂とも思えてくる。

  月へ翔ける駿馬と我と薔薇の鞭
  銀やんまギリシャより来て川を越ゆ
  鈴のよう梅林を駆けてくる少年
  草原をピアノのごとく夏の雨

 これらの句群からは涼やかな風の流れを思う。知人でもあったヨットマンの話。風は受けて流すだけ。操帆も一期一会の風との出会いであり、永遠の彼方から吹いて来る風に乗りそして「つかまえず」流すだけ、と。一句目の天空の風に乗り馬と我とが月に向かって翔けるときの、月光の輝き。
 銀やんまが、ギリシャからさまざまな風に乗り継ぎやってくるという幻想。風を切って駆けて来る少年の、鈴のような可憐さを映像化する。また草原の夏の雨を、ピアノの音と感受する四句目の繊細でやわらかな情感。

  白い馬来る炎天の波止場
  流星の疵のひとすじ天の河
  十六夜や花瓶の水の音がする
  胸中に流氷きしむ年の暮
  月光を滝と感じて目覚めおり

 人は思い余るとき得てして天を仰ぐ。無言になる。自然界は其処に存在しているが語らない。ただ、周りを包み込むだけ。この五句には、無意識的な自嘲や不安、そして焦躁が感じられる。「我」を観察する作者自身の怜悧さも見える。白い馬が来る「炎天の波止場」。流星の疵が天の川と。十六夜も、流氷のきしむ音も、内的動揺の現れと思われてくる。月光と滝。それらを見極める心中には、静かに沈殿する哀しみの表情がひそんでいるのかも知れない。

  月夜の駱駝で行こう約束の河口まで
  サルビアはいつか泣きたいとき活けよ
  蝶として放つわれらの孤独の詩
  コロナマスクのみんな梟よりさみしい
  夜明けの看護師白鳥のようだが鳴かぬ

 巷間、よく耳にする風評。即ち俳句は無口な方がいい。その余白に様々なイメージを植え込むのは読者だからと。あまりに奇想天外であったり難解句は、読者を困惑させるだけだとの言もある。だがその意見には当然異論もあろう。
 対象を視ることの面白さに目覚め、言葉が言葉になる瞬間の不思議さ、言葉の持つ「華やかな傷ましさ」に気付いたとき幻想とか難解と思われる言葉を瞬時に理解できることもある。そこに十七文字の面白さがあるのではなかろうか。
 それはさて置き、先の五句に話を戻す。前川弘明は、世間の雑音(?)とは次元の異なる場所で、定型に収まらない場合は迷いなく破調形式を採り入れることを恐れない。結果率直で伸びやかな俳句の世界を構築する。空想と現実的な時評に加えて諧謔的な部分もある自由な世界を展開する。

  雛段を仔猫がのぼっていく月夜
  蒼肌を哀しみて蛇泳ぐなり
  青しぐれ獣らの牙うつくしき

 生き物への優しい眼差し。夜更けに雛段をのぼる仔猫の可笑しさ。蛇や獣たちに芽生える愛着心の吐露が其処にある。

  歳晩や翼をたたむように寝る
  妻が居る鏡の奧の初景色

 非日常から安らぎの日常に戻り、輝く未来へ歩き出す。(敬称略)

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